海運業
岩崎弥太郎は土佐藩で生まれた。身分の低い地下浪人の出身だった。しかし、その才能を認められ、土佐藩の殖産興業(しょくさんこうぎょう)を目的に作られた開明館の長崎出張所である土佐商会の主任に抜擢された。
弥太郎はこの長崎で坂本龍馬の海援隊ともつながりを持ち、龍馬から海運業の重要性を学んだ。社主となった弥太郎は、保有していた6隻の蒸気汽船を使って日本沿岸の海運業を始めた。
蒸気汽船は晴雨にかかわらず運航できる。これは、明治初期までの和船にはできないことだった。
また、弥太郎は運賃を前もってお客に明示した。今では運賃を先に示すのは常識だが、この当時は斬新な商法だった。
長崎造船所
土佐藩の下級武士だった弥太郎は26歳のとき、藩の命で長崎に赴く。長崎鎔鉄所はまだなかったが、海外の文化や言葉があふれ、盛んな経済活動に目を見張った。
坂本竜馬に出会う
1866年に再び長崎を訪れ、藩の交易を担当する。このとき、武器や船舶を売る英国人貿易商トマス・グラバーや、日本初の商社「亀山社中」を興した坂本竜馬に出会った。
日本の台湾出兵で物資輸送を独占
1870年、岩崎弥太郎は土佐藩から英国製汽船3隻を払い下げられ、海運会社九十九商会を設立。台湾に漂着した琉球漁民殺害を機に起こった日本の台湾出兵で物資輸送を独占、海運王となる。
買収
弥太郎は1881年、グラバーが開発に失敗した高島の官営高島炭鉱を買収、自慢の船団で石炭を各地に運んだ。事業の拡大のために、海外列強の船に負けない最新船が必要になった。
死去
政府に長崎造船局の貸与を請願し、1884年造船事業に参入した。しかし、翌1885年5月、弥太郎は胃がんで急死する。享年52歳。
1885年の11月に起工した船が船番4番、夕顔丸である。2代目夕顔丸は、1962年まで長崎港と高島間の貨客船として活躍。長崎県内の造船所で解体され、史料館に操舵(そうだ)などが展示されている。
三菱重工業長崎造船所
総合重機最大手、三菱重工業が全国に配置する14事業所の中核。造船、原動機・プラント、産業機械、航空機などの製造拠点である。
時代 | 年 | 出来事 |
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草創期 | 1861年 | 幕府がオランダの協力で長崎鎔鉄所(のちに長崎製鉄所)を開設 |
1870年 | 岩崎弥太郎が大阪で九十九商会(郵便汽船三菱会社の前身)を設立、三角菱の商標使う | |
1884年 | 政府、郵便汽船三菱会社に造船所を貸与、1887年払い下げ受ける | |
1885年 | 造船所建造第1号の「鴛鴦(おしどり)丸」完成 | |
1887年 | 初の鉄製貨客船「夕顔丸」が完成 | |
1889年 | 長崎市制施行 | |
近代化 | 1899年 | 海軍から初の軍艦建造命令。三菱工業予備学校を設立 |
1904年 | 英国企業から舶用蒸気タービンの製作権を取得 | |
1908年 | 日本初の発電用タービン完成、従業員1万人突破 | |
1915年 | 三菱合資会社長崎造船所に改称 | |
1920年 | 第1回国勢調査実施、長崎市の人口約17万人で九州1位 | |
戦時体制 | 1921年 | ワシントン軍縮会議。軍備制限の影響で大量の人員整理 |
1942年 | 戦艦武蔵が完成 | |
1945年 | 広島、長崎に原子爆弾投下。造船所も被爆 | |
1946年 | 造船祭を開催、造船所を初めて市民に開放 | |
1950年 | 財閥解体で三菱重工が3分割 | |
国際競争 | 1956年 | 建造量で日本が英国抜き世界トップに |
1964年 | 三菱3重工合併で現在の三菱重工業に | |
1965年 | 造船所単位で進水量世界一に | |
1972年 | 世界最大級の100万トン船建造ドックの香焼工場が完工 | |
1976年 | 石油危機の影響で大手各社が設備合理化開始、1980年代後半にも | |
次世代 | 1990年 | 豪華客船「クリスタル・ハーモニー」完工、半世紀ぶりの客船 |
1991年 | 諫早に宇宙機器工場が完成 | |
1993年 | 新造船受注量で韓国が日本抜き1位、1994年日本が返り咲き | |
1994年 | 超高速貨物船、テクノスーパーライナーが完成 | |
1999年 | 世界最大級客船を受注内定 |